
「幸せな老後」って家族にしろ友人にしろ、なんか人に囲まれていてあははうふふしてそうなイメージがある。
なんとこのフワフワしたイメージには裏打ちがある。 80代で心身ともに健康で幸せな人は、50代時によき人間関係に恵まれているという研究結果があるのだ。
驚くべきことにコレステロール値よりも人間関係が、健康に影響するのだ。マジで言ってる?
会社員プロダクトデザイナー。ときにプロジェクトマネジメント、リサーチ。福岡⇄東京。たまに文章を書いたりピアノを弾いたり。ハロプロが好き。
「 いつメン」しかいないの、ハイリスクでは?
まあでも、薄々わかっていたことではあるかもしれない。
孤高って、かっこいいじゃん?中二くらいから、憧れてたじゃん? でも、憧れは憧れだった。一人は普通に寂しかった。 人は、ひとりじゃ生きられないのよ。
エビデンスがあるのよ。DNAに群れたいと刻まれているのよ。
CVナウシカで脳内にこだまする。
狭くて深い、ってちょっといい響きだ。 「真の友」を持ってるんだぜ、感がある。実際、美徳ともいえる。 でも、その響きに耽溺しつづけるのは水から火を入れられる茹でカエルになる可能性がある。
なぜなら、家族や、長年の友人など、固定の「いつメン」で人間関係を回している場合。「仲良しメンバー」が増えることはないからだ。
ライフステージや環境の変化で、疎遠になることは往々にしてある。 そのうえ、加齢とともに、リアルに現世からグッバイする人とかも出てくる。
「イカした仲良しメンバーを紹介するぜ!」のはずが、気づいたらメンバーはおらずソロになってた。
みたいなことになりうる。
人間関係もリスクヘッジ…。 そう思うと豊かな人間関係を歳を重ねてももつのに重要なのは、竹馬の友に並行して、新規の友だちをある程度コンスタントに作っていくことなのだろう。
つまり、健康に生きるには新しい友だちをちょくちょく作る必要があるし、ナチュラルボーンに「友だち作るのたのしー!!」となる、外向的な人はそれだけで「生き物として強い」といえるだろう。
内向的でも、健康に生きたい
ここまで、ブーメランがマチバリ並みに脳に刺さり続けている。 認めよう。私は、この観点でいえば、生き物として弱い! 内向的で、新しい友だちを作るのに腰が重いほうだからだ。
そして、すごい偏見を言う。 デザイナーって、わりと、内向的で人見知りな人が、多いのではないだろうか?
みんな目を閉じてな。 正直「また人間関係かよ…」と思った人は手をあげて欲しい。 ありがとう。先生も思った。
古くは「では二人一組になってください」というピリつく号令からはじまり、 社会的な成功も、あらゆるコネも、人間関係。 健康すら、人間関係。 社会的動物ヒトの業をビシバシに感じている。
さて…このままでは、限られた長年の友だちのみと仲よくしてる人間は健康がとりあげられてしまうのだろうか?
いやだ!!!健康に、生きたい!!!!!
こうして、「友だちを作る」はそれなりの重要度として人生テーブルにあがってくるわけだ。
1人の「友だち」には20人の「顔見知り」が必要という基本ルール
さて、いかにして「新規友だち」はできるのか?を考えてみる。
「友だちできた!」達成までのファネルだ。
友だちになるまでには、いくつかの段階がある。
「あ、一回ごあいさつしましたよね」会ったことあるかな〜レベル
「先日もありがとうございました」何回か会ってる「顔見知り」レベル
「こないだ一緒に飲んだよね」人付き合い継続してるレベル
「ウチら一緒にいると 楽しいよね」の共通認識が構築されるレベル = 「友だち」
子どものころってこんなややこしかったっけ?大人ってややこしいんです。
そう、友だちって、自分の意思だけでなるものじゃないし、一瞬でなれるわけでもない。仕事仲間や同僚とちがって、友だちは自然に生えてこない。
だから、ふつうにしてたら「いっかい会った」レベルから「友だち」になるのは、20人に1人とか…そういう肌感がある。 まあまあの確率だ。
ここに罠がある。
ヒトと会うと疲れる問題
内向的な人間はたくさん人と会うと疲れるのだ!! 身もふたも無い。大人げもない。
いやほんと、いい歳して言うことじゃないのはわかっているのだ。 「わたし人見知りなんでエヘヘ」なんていうのは、自分サゲなようで相手のコミュニケーション配慮を引き出す傲慢な態度だ。人見知りハラスメント。ヒトハラ。ハラキリ。
でも正直、友だちを つくるために、何回も人の渦に飛び込まないといけないのは、結構気合いがいるのだ。 いや、目を背けたい真実をいえば、この面倒さは、加齢もあるのかもしれない。
しかし「新規友だちづくり」のいとなみは生きる限りの長期戦だ。
こんなわたしでも、そして、歳を重ね生きる限り、できる持続可能性がないといけない。
いつでも探しているよ「潜在的友だち」を
いまいる「友だち」に想いを馳せてみる。
思い返せば、偶然にせよいろんな要素が重なり合ったのだろう。 趣味、生活環境、共通の話題、フィーリング、バイブス、笑いのツボ。 「心地いい」をともに過ごせる人は、実は結構少ない。
年齢を重ね、自分らしさを磨いているうちに、良くも悪くも「心地いい」のこだわりが増えたわれわれにとって、「友だち」たる人たちは実はまあまあなレアキャラなのかもしれない。
そう、バンドもそうだ。 どんなにハイスキルでも音楽性の方向が違うメンバーと無理して組んでは、あっというまに解散もとい自然消滅にいたる。
逆にいえば、気が合う人であれば、わりと会話の序盤で「なんか…君イイね…」とお互い惹きつけ合ったりもする。 そういう人とならあっという間に「友だち」に至れる。まるで前から友だちだったかのように自然と。
そう、世の中にはまだ会っていない「潜在的な友だち」がいるのだ。
「顔見知り」から「友だち」になる確率を、20人に1人から、グンとあげるヒントはここにある。
もとより「潜在的友だち」相手なら、新規出会い数に対し、かなりの高確率で友だちまでコンバージョンする。
「双方にとって質のいい」ランディングの数を増やすのだ。 人間どうし、定着しあうには、そのときのフェーズや気分があるのだ。くしくも、サービスの新規ユーザーを増やすのとおなじように。
やみくもにモテてもしょうがない。マッチングだ。「気が合う人」を見つけださなければいけないのは、恋愛も友だちも一緒なのだ!
え、でもどうやって?
「友だちのタネ」を連れてきてくれるハブな友だち
「潜在的友だち」発見ミッション難易度
オーソドックスにいえば、「潜在的友だち」の生息場(狩り場)を推測し、フッ軽に乗り込みまくるのが順当な戦略だろう。 趣味のコミュニティや同じ生業の集まりなどだろうか(真剣に友だちのマッチングアプリがないか探したこともあるが、なかなかない)。
だが、潜在的友だちはわかりやすいタグ付けだけじゃなく、非言語なフィーリングも含めてのマッチング。まあまあレアキャラなので、結構な場数を踏めるフッ軽メンタリティを持つ必要がでてくる。 そう、それこそ、恋人を探すとき並みに。
社会人になりライフステージの変化でなにかと忙しくなったうえに、体力も落ちてきた中、なかなかのコストが必要になる。 それこそ、人生がつづく限りのミッションとしては持続可能性が徐々にキツくなる場面もあるだろう。
餅は餅屋、フッ軽はフッ軽
さて、では、潜在的友だちを発見する手段はほかに何かあるのか。 数少ない、過去の成功体験を思い返してみる。
思い浮かぶ顔があった。やたらフッ軽な年下の友人Aだ。
Aは、どうやら「人」が好きなようで、毎日のようにいろんな場に顔を出している。一人暮らしで、自由なライフスタイルということもあるだろう。 その外向的なパーソナリティに好奇心や文化系っぽさが同居して、ありがたくも仲良くしてもらっている。
そして、どうやら仲良しを仲良しに引き合わせることを趣味にしているようで、何かと新しい人を連れてきてくれる。それも、「この人とこの人は気が合いそうだな」というキュレーションをしたうえで。何かのプロ?
そう、自分を知っている友だちを取り巻く人は、やはりどこか自分と「しっくりくる」空気感をまとっており、あれだけ探すのに骨が折れる潜在的友だちが結構な割合で存在しているのだ。ここにそんなフィールドが…! いうなれば、Aのような、自分と仲良くしてくれていてかつフッ軽な人は、「友だちのタネ」になるような人を取り巻いている。
そんなわけで、このAのおかげで得た友だちも多い。 Aはハブであり、友だちのタネを連れてきてくれる友だちなのだ。
「友だち」というだけで、大人になった自分にとってはかなりレアな人材なのに、外向的で付き合いのいいフッ軽な人…。 レアとレアの掛け合わせの、掛け合わせ人材だ。 内向的な自分からするとある種の命綱のような存在である。一方的に重い。
とはいえ、あなたの友だちにも一人はいるのではないだろうか?フッ軽な人が。
付き合いのいい人の好意は素直に受け止めるべきということだ。 人の集まりが苦手だとしても、なんだかんだ行ったら楽しかったりもするものだ。